n回目の人生

フィクションを交えながら日記を書きます。

2020年1月17日

ワードプレスも勉強を兼ねて構築中なのだけど、今年はアウトプット欲がなんとなくここ数年では珍しく高まっているので、ちょうどはてなブログに使っていないブログもあることだし、そこで日記代わりに書ける場所として使ってみたい。

Twitterで岡田育さんばりにコメントを連ねて書いてもいいんだけど、やっぱり今年の目標である”官能小説を書き上げる”という点を達成しようとすると、なるだけ140文字に収まるように書くのではなく、筆の向くままに長文を書くことに再度慣れなければならないと思ったからである。

本当に自分の記憶力が当てにならないので、考えたこととか思ったことのうち、公開しても良い内容のものは書き残しておくべきかなと思ったということもある。

そういうわけです。もちろん、ここに書いていることがすべて真実で100%全てではない。すぐにどこの誰が書いてるブログか分かる状態にしてある(=隠す努力をしていない)のに、当たり障りがあるようなことは書くつもりもない。

今日は日曜日だったので、課外活動のミーティングが入っている時間まで、競馬を眺めながら制作作業をするつもりだった。が、結果的には対面の仕事①が入り、午後イチから出かけることになった。

それで、もちろん鑑定はいつもどおり真面目にやったわけですが、ついに占いを教えてほしいみたいな流れになった。これまで教えることは考えたことがなかったし、スピリチャルとはかけ離れた占い屋だから、お客さんや同業者には申し訳ないのだけど、すべての占いに対して懐疑的な立場を取っているのが本当のところなのだ。そんな占い師がノウハウや鑑定方法を教授して、あまつさえお月謝をいただく立場であって良いものだろうか?と考えてしまったが、今年のおみくじは「運を天に任せよ」だったので、流れには逆らわない。前向きにできることを考えてみようと思った。

元々入っていたのはその後16時からの課外活動のミーティング。これまで数多くの市民活動やら、民間から発生したイベントやワークショップを傍観する立場にいて、結果としてやりっぱなしになり、意義があったのか無かったのかいまいち中途半端になってしまったアレコレについて、もしかしたら、あまりどことも利害関係がないからこそ、好き勝手語って、記録としてまとめておかなきゃいけないんじゃないか?とこの数週間で感じたのをきっかけに、そのタイミングでたまたま、ジャンボくんとTwitterで目があったので会って話を聞いてみたいと思ったのだ。その流れで、一番現実的な立ち位置で俯瞰している大先輩とも目があった(あわせた)ので、巻き込ませていただいた。

何をどうするという具体的な話し合いにはする気持ちはなかったのだけど、やっぱりやるべきトピックであり、どうせしばらくは課外活動的になるので、少しでも勢いが殺されないうちにキックオフしておくべきだなと思った次第だ。

もう7年?8年になるが、渡辺保史さんが急逝して、そしてその後こんなにすぐに星野さんが逝くとは思わなかったし、RehanLamsayも逝ってしまって、やっぱりどこか自分の中に後悔があるんだと思う。若かったからこその小さな意地やくだらないプライドや、みみっちい怒り。そんなものにとらわれて生きるには、人生はあまりにも短いし予測不能だとしみじみと腑に落ちたせいかもしれない。どこかいつも、先に逝った人たちに、背中を押されているような、監視されているような、文句を言われているような、そんな焦燥感がある。

そしてこのコロナ禍で、観測範囲的な人々が疲弊して、どうにか盛り上げて乗り切りたい……と書いている「どうにか」。それは、2000年頃に街で起こっていた動きに関わってきた人たちが抱えていた「どうにか」と根本が同じなのではないかと感じた。

個人的には、まちづくりとか別に好きじゃないし、街づくるためにあーだこーだ考えたり動いたりするわけでもない。が、それぞれのイベントや団体や、その時の出来事の反省や良かったことや、ノウハウが今の世界に活かされないのは、逝ってしまった人たちに申し訳が立たないような気がして。で、あるならば、誰とも距離を取っている自分の立ち位置として、事実関係を記録としてまとめて、たまには誰か人の役に立つ事をしておきたいなと。それぐらいのきっかけ。中途半端になることを恐れて動かないのは、逝ってしまった人たちに対して悪いような気もするし。非公式だからできること、はぐれものだからできることがありそうだ。